"U.S. Economic Growth since 1870: One Big Wave,". Schmidt, Louis Bernard, and Earle Dudley Ross. )を主唱し、彼はそのスピーチの中で“ニュー・ディール”の用語を造った。この大統領選は政策論争に終わらなかった。1932年3月4日からペコラ委員会が発足して暗黒の木曜日を引き起こした原因を調べ始めた。主催はニューヨークの検事補フェルディナンド・ペコラが務め、委員会の報告は連日新聞の一面を飾った。スキャンダルの嵐が吹き荒れ、一筋のかまいたちが全米の堪忍袋を引き裂いた。一つの銀行シンジケートにおいて、ジョン・モルガンの息子ジャックが1930年から3年間、また19人の仲間が1931年と翌年、連邦所得税を支払っていなかった。ジャックはイギリスで所得税を支払っており、先の19人は保有株の損失で税金の控除を受けていた。これら自体は何も違法性がなかったが、ジャック・モルガンがインサイダー取引に手を染めて、公開・上場前に株をまとめて引受け仲間へ安く売却していたことが分かった。所得税に関する情報は、インサイダー情報を共有するシンジケートの範囲や基盤に関係した。インサイダーの具体的内容はこうである。JPモルガンは主幹事として1929年にアレゲーニー・テクノロジー(リンク先は醜聞倒産してから再生をとげた後継企業)など3社の持株会社が発行した新株を引受けてコネクターに払い下げていた。アレゲーニーの場合、払い下げ価格が1株20ドルだった。コネクターはそれらを市場価格35ドルで売却した。コネクターには、カルビン・クーリッジ、ウィリアム・ウッディン、チャールズ・リンドバーグなどがいた。[74], ルーズベルトは多様な助言者集団(ブレーントラスト)に大きく依存しており、彼等がニューディール政策と呼ばれる多くの計画で問題を解決していくことになった。1933年3月4日ルーズベルトが大統領に就任したその日、金融恐慌は全米に広がり、3月6日から9日までの4日間全米の銀行に休業命令が出された(バンクホリデー、モラトリアム)[75][76]。ルーズベルトは就任から最初の100日間で重要法案を議会に承認させ、恐慌克服に動き出した(いわゆる「百日議会」)。農家経営の安定のために農業調整法(AAA)、失業対策のためのテネシー川流域開発公社(TVA)に代表される公共事業や連邦緊急救済法(FERA)、政府が企業経営に関与し、生産調整と価格の安定化により企業経営の改善を図る一方、労働者の団結権や団体交渉権を保証した全国産業復興法(NIRA)、また、金融制度安定のために、証券業務の規制を強化した1933年証券法、商業銀行と証券業務の分離や預金救済のために連邦預金保険公社(FDIC)の創設などを規定したグラス・スティーガル法(1933年連邦銀行法)等である。同法と証券取引委員会根拠法の立法事実として、ペコラ委員会の調査報告は国民の記憶に深く刻まれている。経済学上ニューディール政策は社会政策としての側面がしばしば強調される。しかし正しく評価するならば、前掲のウィリアム・ウッディンを例とするしがらみがありながら、証券界の腐敗という問題の核心には一応の措置を講じたものということになる。, ニューディール政策は1933年の諸立法で完結しない。1934年全国住宅法(National Housing Act of 1934)に定めた条件で、連邦住宅局(Federal Housing Administration)が住宅モーゲージ貸付の債務不履行による債権者の損失を債務者の保険料で保険するようになった。この制度こそ恐慌の起因に作用した。保険対象は、全国住宅法第一章のリフォーム貸付と、第二章においては原則として203条 (b) 項の1-4家族用新築貸付であった。前者が保険する程度は融資額の20%(後に10%)であったが、当分保険料の徴収はなかった。後者は最初から保険料が徴収された。後者ではデータ蓄積に伴いモーゲージのリスク格付けが進んだ。これがモーゲージ証券化の端緒であった。そして連邦政府自らがモーゲージを流動化し第二次市場を形成しようとした。1935年に設立されたRFCモーゲージ・カンパニー(RFC Mortgage Company)と、1938年に設立されたワシントン国法抵当金庫(National Mortgage Association of Washington, 連邦住宅抵当公庫の起こり)が連邦住宅局保険モーゲージを購入した。商業銀行・相互貯蓄銀行(Mutual savings bank)・生命保険会社が保険制度の恩恵を受けた。貯蓄貸付組合は恩恵が少なかった。[77], 国際経済面では1933年4月19日の金本位停止[78]と平価の切り下げにより通貨価値の高騰はようやく安定を見せた[79]。1934年1月には金平価を1オンス35ドルとする金準備法を制定した。南北戦争中から維持されていた旧平価1オンス20.67ドルは59%にまで切り下げられたのである。こうして金本位制から離脱しドル安方向に為替を誘導した。一方ではデフォルト続きのラテンアメリカ諸国と善隣外交を進めドルブロックを形成し、イギリスのスターリングブロック、フランスのフランブロック、日本の円ブロックに対抗した。[80], 政府の支出はフーヴァー政権の1932年でGNP比8.0%から1936年にはGNP比10.2%に増えた。ルーズベルトが「通常」予算を均衡させる一方、緊急予算は国債で賄われ、国債は1932年GNP比33.6%からGNP比40.9%まで増えた[81]。赤字予算が何人かの経済学者、中でも著名な者はイギリスのジョン・メイナード・ケインズによって推奨された。ルーズベルトはケインズに会ったが、その推奨には注意を払わなかった。統計図表を書き続けていたケインズと会った後で、ルーズベルトは「彼は政治経済学者というよりも数学者に違いない」と注釈した。ケインズもルーズベルトの爪の形が気になるあまり自分が何を説明したかよく覚えていなかったという。, 失業対策事業や公共事業への支出がアメリカ経済を回復させるだけの刺激を与えたその程度、あるいはそれが経済に悪影響をもたらしたのかが今でも議論されている。経済の健全さ全体を国内総生産で定義するならば、アメリカは1934年までに回復軌道に乗り、1936年までに完全に回復したが、1937年不況で失業率は1934年の水準まで戻った。不況のさなかに『アメリカの60家族』という本が出版され、合衆国の独占的な経済構造を暴露した。, ブローダス・ミッチェルは「大半の指標が1932年夏まで悪化し、経済的にも心理的にも不況の底と呼んでいいかもしれない」と要約した[82]。経済指標ではアメリカ経済が1932年夏から1933年2月まで底を突き、その後着実に急速な回復を遂げ、それが1937年まで続いたことを示している。工業生産に関する連邦準備制度指標は1932年7月1日に最低点52.8となり、実質的に1933年3月1日の54.3まで変化は無かった。しかし、1933年7月1日までに85.5まで達した(1935年から1939年の指標を100とする。これを2005年でみれば1,342となる)[83]。ただし、こうした指標の値は必ずしも庶民の実感を伴ったわけではなかった。, 1 単位:10億ドル。物価水準は1929年におけるドル価値基準 Contributions to Percent Change in Real Gross Domestic Product, Expanded Detail (A) (Q), US Business Cycle Expansions and Contractions, Income and Poverty in the United States: 2019, The Changing Shape of the Nation’s Income Distribution 1947-1998, Historical Income Tables - Income Equality (1999), Household Income Inequality Measures Based on the ACS Data: 2000-2005, State-Level Mean Household Income and Selected Income Inequality Measures, 2006, State-Level Mean Household Income and Selected Income Inequality Measures, 2007, Lehman Is In Advanced Talks to Sell Key Business, A Monetary History of the United States, 1867-1960, broad economic history of the era; online, Bureau of Economic Analysis: Official United States GDP data. 1971年、8月に来るべきニクソン・ショックがおこり、12月にスミソニアン協定が結ばれた。, ホワイトカラー層がブルーカラー層を数の上で凌駕し始めたこと、加えて生活水準が向上し、技術革新とコストダウンも相俟って結果として住宅・自動車・家電製品といった耐久消費財が普及し、大衆消費社会が本格化した[94]。ここにアメリカ的生活様式という言葉まで生まれた。その姿は第二次世界大戦の前や戦時中に全盛となったハリウッド映画、さらには普及し始めたテレビに流れる映像によって世界中に知られるようになり、多くの国ではアメリカに少しでも追いつくことがその経済目標になった。一方で、1962年にマイケル・ハリントンがその著書『もう一つのアメリカ』で指摘したように「この国におよそ5000万人の貧民がいる[99]」状況も注目され、リンドン・ジョンソン大統領(在任1963年-69年)のときに「貧窮との戦い」が宣言された。貧困率は1959年の22.4%から1973年は11.1%に減少した。1980年代から2018年の期間は11%台から15%台の範囲内で推移し[100]、2019年は11%を下回る10.5%となり、1959年以降最少となった。また、2019年の貧困者数は約3,398.4万人である[100]。1960年代末から1970年代初めにかけて、コーリン・クラークのいう産業のサービス化が進んだ。これにより収入の不均衡はかつてない位に劇的に増加した。しかしアメリカ合衆国の消費者は1970年代のインフレで多くの物を買えなくなった。1968年、合衆国のジニ係数(国民所得分配係数、0.5を超えると不平等格差が大きく問題となる)は0.388[101]となった。この値は日本の0.381にほぼ等しく、イギリス (0.368) やカナダ (0.331)より高かった。, 1960年代後半、この凄まじい経済成長が減速していることが明らかだと見る者がおり、1970年代になるとスタグフレーション(景気沈滞下のインフレ)が誰の目にも明らかになってきた。リチャード・ニクソン大統領が賃金と実物価格の統制を試みた。1970年代は環境問題や消費者運動が高まった時期でもあり、政府は新たな規制や職業安全衛生管理局、消費者製品安全委員会およびアメリカ合衆国原子力規制委員会など規制を行う組織を設立した。, ブレトン・ウッズ協定が1971年から1972年に掛けて崩壊し、ニクソンは連邦準備制度の金の窓口を閉鎖し、合衆国は金本位制から完全に離れた。この間1971年12月、ハント委員会(President's Commission on Financial Structure and Regulation)が開かれ、定期性預金の預金金利最高限度を廃止してマクファーデン法のモーゲージ規制を骨抜きにしたり、特に貯蓄貸付組合と相互貯蓄銀行をモーゲージ貸付に誘導したり、連邦住宅局保険付貸付・復員軍人局保証貸付によるモーゲージ金利最高限度額規制を廃止したり、全金融機関で住宅モーゲージ貸付由来の利子所得に特別税額控除制度を適用したりすることが同委員会より勧告された[102]。1973年10月に金融機関法案が同委員会の勧告を多分に盛りこみ上程された。1975年以降、議会に追及されながらも連邦準備制度が通貨供給量を増やしていった。連邦準備制度の独立性保証が先のハント委員会で勧告されていた。このような一握りの人間が計画した官民連携が、西海岸の住宅ローン、特に将来のサブプライムローンが太っ腹に組まれる条件としての資産インフレを招いた。, 1973年に証券取引委員会が再び活躍を始めた。エクイティ・ファンディング事件を摘発したのである[103]。エクイティ・ファンディングをつくったのは例によってボストン出身の、しかもバーニー・コーンフェルドを目指す、Michael(Mike) Riordan という男だった。マイクは1966年にドレフュス商会の幹部を引き抜いて自分の投信事業部で働かせていたが、1969年1月に変死をとげた。マイクは独立する以前にKeystone organization という投信会社の営業をやっていたが、そこの精鋭にGordon McCormick という男がいて、予めInvestors Diversified Services で鍛えられていた。ゴードンは考えた。まずミューチュアル・ファンドを売り、それを担保にローンを組ませ、ローンで借りた金で保険料を払わせるというアイディアを。それは良い手数料稼ぎであった。このセット販売に対して証券取引委員会は1962年に登録義務を課した。エクイティ・ファンディングは翌年半ばから登録するようになったが、証券取引委員会は登録義務が十分に果されていないのも分かっていたし、キーストンがエクイティ・ファンディングを営業に使ってファンドを売りまくっていたことも知っていた。このような手数料割戻しの疑われる状況に、証券取引委員会は調査を試みながら資料の散逸とニクソンの不干渉政策に阻まれていた。しかし手に入った1965年までさかのぼる記録からは、保険証券の架空販売を中心とする20億ドルの詐欺行為が証明できたのである。保険業界アナリストのRay Dirks が1974年に独自の調査報告をまとめ、その中でこう記した。「5月の初め、もうすでに包囲されたエクイティ・ファンディングの業務部で、『ウォーターゲート事件よ、ありがとう』という表示が出た。(中略)エクイティ・ファンディングは新聞の一面に登場することを免れたのである」[104], ジェラルド・フォード大統領は「今こそ、インフレを倒せ」(Whip Inflation Now)という実を伴わないスローガンを打ち出した。労働生産性が1974年には前年比マイナス1.5%、翌1975年には前年比マイナス1.0%にまで鈍化し、1976年になりようやくプラスに転じた[105]。1976年、ジミー・カーターが大統領に当選した。カーターは後にさらに大きな経済変動の時代を到来させたと大いに非難されたが、この状況はカーターのやれる範囲を超えていたと指摘する者もいる。, 物価はうなぎ登りに上昇した。労働生産性の成長はマイナスではないものの、微々たるものであった。金利は高止まりし、プライムレート(最優遇貸出金利)は1981年1月に20%に達した。アート・バックウォルドは、1980年が地方の銀行よりもマフィアに借りた方が利子が安くなる歴史的な年になると皮肉った[106]。, 失業率は1975年から1979年にかけて着実に減少していたが、その後急速に上昇し始めた。, 規制緩和の動きはニクソンが辞任したときに始まり、フォード、カーターおよびレーガンの政権下で超党派の動きとなった。最も重要なのはエネルギー・通信・輸送・金融各分野から、グラス・スティーガル法とニューディール政策の規制を取り去ることだった。預金と貸付の規制を急いで緩和したが、一方連邦保険はそのままだった。これが預金・貸付危機となり、政府は推計で1600億ドルを失った。間接金融から逃避した資本は投資銀行の日欧進出を勢いづけた。なお、エネルギーは規制緩和の裏でカリフォルニアが固定価格買い取り制度を導入し、21世紀のスマートグリッド構想を草分けた。, 1981年、ロナルド・レーガンが財政拡張政策であるレーガノミックスを導入し、連邦所得税の累進課税率を25%下げた。インフレ率は1980年の年13.5%から1983年の年3%まで劇的に低下した。これは短い景気後退と、連邦準備制度のポール・ボルカー議長が通貨供給量と利率を締め付けたことによっていた。実質GDPは1980年から1982年に収縮した後、成長を始めた。失業率は上がり続け、1982年後半に10.8%にも達した。一方、レーガノミックスは高金利政策も採用していた。それでアメリカとそれ以外の国の内外金利差が拡大しドル高傾向となっていた。そのため、1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルでG5(日米英独仏)の蔵相が集まり、過度のドル高を是正することが決定された(プラザ合意)。その後失業率は急速に下降し、レーガン政権末期の1989年1月には5.4%のレベルになった。, レーガン政権を批判する者は、レーガンが大統領である間に上流社会経済階級と下流社会経済階級のレベル格差が拡がったという事実を指摘することが多い。レーガンの政策で生まれた国債は3倍(1981年の9300億ドルから1988年の2兆6000億ドル)と記録的なレベルに達したことも指摘している。20世紀後半のレーガン以前のどの大統領も、GDPに占める国債の比率を減らしていた。財政赤字に加えて、アメリカは巨額な貿易赤字も始まった(双子の赤字)。そこでレーガンは2期目の1986年に税制改革法を成立させた。このような形式だけでなく、あてになる金策を用意してあった。レーガンの高金利政策はドル高に着目するかぎり自滅的であったが、そうして集めた研究資金がプロパテント政策と相乗効果をあげた。知的財産と渉外産業の競争力を引き上げるというプロパテント政策は、すでに1980年のバイ・ドール法(Bayh–Dole Act)により始まっていた。この法律は、連邦資金によって研究開発した特許等を大学や中小企業が取得して活用する、スピンオフを認めるものである。大学にはメロン財閥が作るような財団と関係するものが多い。しかも大学は企業に技術移転をする窓口を設けた(TLO)。そして合衆国の財閥は投信で中小企業も支配した。プロパテント政策は税制改革のころに具体案が提出され、一方でウルグアイ・ラウンドが知財・渉外産業の門戸開放を実現した。1988年アメリカ合衆国大統領選挙で、前副大統領のジョージ・H・W・ブッシュがレーガンの後継者に選ばれた。ブッシュ政権の初期経済政策は基本的にレーガン政策の継続だった。1990年代初めに妥協に走り、議会民主党との協議で増税を行った。障害を持つアメリカ人法のような規制法に署名したり、NAFTA(北アメリカ自由貿易協定)の交渉を行ったりもした。1992年、ブッシュと第3の政党候補者ロス・ペローが民主党のビル・クリントンに敗れた[107]。この90年代にミューチュアル・ファンドが「バイ・ドール方式」と一緒に欧州とアジアへ大量輸出された。, その後の規制緩和とグローバル化で、合衆国の会社がその製造や重工業を低賃金である第2、第3世界へ移すようになった。これが追い討ちをかけて、アメリカにおける所得の不均衡は劇的に増大した。2005年、合衆国のジニ係数は0.466[101]に達した。この値はマレーシアやフィリピンの0.461と同じ水準となり、中国 (0.44)よりかなり上となった。共和党と民主党の両政権が1960年代以降に採用した「自由貿易」と「市場開放」などの経済政策は、次のように批判される。すなわち、貿易や合衆国における生産コストに恩恵を与えた一方で、合衆国の中産階級からその繁栄を取り去った。この期間、確かに消費者はかつてなかったほど多くの製品や商品を低価格かつ高品質で買っていた。もっとも、買い物予算はローンが残っている土地・住宅の資産インフレが生み出した可処分所得だったのかもしれないが。, 1970年代以降、日本の自動車や家電製品がアメリカ国内でシェアを伸ばした。1980年代に入ると小型低燃費で品質が向上した日本車が輸出を一層拡大した。米国内の自動車産業と、部品をつくる鉄鋼・板ガラス産業は壊滅的な打撃を受けた。半導体を巡る対立がもっとも深刻だった。デトロイトでは人口流出が続きピーク時から半減し、人口の8割が黒人となった。対日貿易赤字が拡大する中で、牛肉等の畜産物や米・柑橘類の農産物に係る日本の関税に対する批判が高まり、ジャパンバッシングと呼ばれる反日キャンペーンがおこった(貿易摩擦)。そこで1988年に「包括通商・競争力強化法」(スーパー301条)が施行された。それは不公正な貿易慣行や輸入障壁がある、もしくはあると疑われる国を特定し、輸入品に対する関税引き上げという強力な報復制裁措置を行うというものだった。1989年7月14日の日米首脳会談の席上、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が宇野宗佑総理大臣に日米構造協議を提案し実現した。その結果、日本の公共投資の拡大、土地税制の見直しや大規模小売店舗法の規制緩和が進められた。このような国のあり方や文化にまで範囲を広げる交渉は前例の無いことだった。, なお、メガバンクの世界金融危機とその他に負う数々の責任が社会の目に明らかとなりつつあった矢先、デトロイトは2013年に財政破綻した。メガバンクの中には投資信託を売りまくるものもあったし、オイルショック時代に株価下落と金利上昇が起こる中で金を採掘する鉱山会社とのつながりから資金をほしいままにしたものもあった。そういう銀行にかぎって、世界金融危機のときサブプライムローンを投資信託のポートフォリオに混ぜて売っていたし、危機後に金採掘のピッチを上げたり英国ロンドンの貴金属市場で価格操作をしたりもしていた。そもそも日本製自動車の競争力は、合衆国の自動車会社が従業員の保険制度を手厚く保護し負担を価格に転嫁しており、日本ではそういうことをしていなかったという、ダンピングとは無関係の相対事情が生んだものであった。そして、そのアメリカで一番潤っている銀行団はデトロイトを助けなかった。彼らは1970年代に貯蓄貸付組合へ危険な投資信託を売りつけ、レーガンとブッシュの時代にS&L危機を引き起こした。自治体や組合をばかにしてきたのである。, 1990年代、国債は75%増加し、名目GDPは69%増え、株式市場はスタンダード・アンド・プアーズ総合500種株価指数で3倍以上に成長した。, 1994年から2000年まで実質GDPは増加し、インフレは適度に抑えられ、失業率は5%以下に落ち、ドットコム景気と呼ばれる株式市場の活性化に繋がった。1990年代後半は宣伝の行き届いたハイテクとドットコム会社の株式新規公開で特徴付けられる。しかし、2000年までに株式評価の明らかなバブルが起こり、2000年3月からは市場が1990年代の成長の50%から75%にまで落ち込んだ。経済は2001年に入っても悪化し、実質GDP成長率はわずか0.7%増[85]に留まり、失業率や企業破綻は確実に増加し、また不況の引き金を引いたのはしばしば2001年アメリカ同時多発テロ事件だと言われている。, 2001年から2007年まで、アメリカ合衆国中で過熱した住宅市場によって、アメリカ経済の強さに関する安全性に偽りの神話が作られた。この住宅ブームとバブルについてその責の幾らかはクリントン政権によるものと主張する者が多い。ニューヨーク・タイムズはクリントン政権が1990年代後半にサブプライム融資を強く推進したことに関して、「住宅抵当権で国内最大の引受け機関であるファニー・メイ(アメリカ政府支援の住宅投資機関)がクリントン政権からの高まる圧力の下に収入が中下層の人々に抵当権付貸付を拡大してきた」という記事を載せた。[108], 1995年、クリントンはカーターによる1977年の地域社会再投資法を変更し、赤線引き(特定地域の住民には融資しないなどの投資差別)を規制し強化した。これは長年65%程度に留まっていた持ち家率を上げるためになされたと多くの者から受け取られた。その結果は財政制度によってよりリスクの大きい貸付に大きな投資を促すことになった。1993年から1998年の305の都市における貸付傾向に関する2000年の財務省調査では、地域社会再投資法による貸主から4670億ドルの抵当権付貸付が中下層収入者やその周辺に注ぎ込まれたことを示していた[109]。, さらにビル・クリントンの下でホワイトハウスは重要な規制を外しもした。ワシントン・ポストは次のように書いていた。, 1999年、グラム・リーチ・ブライリー法が制定された。同法が一部撤廃したグラス・スティーガル法は去る暗黒の木曜日をきっかけに生まれた。金融会社の一部にあった多くの不法行為がそこで暴かれ、同法が利潤と不正行為の紛争を防止するために商業銀行と投資銀行の財務制度をその事業に応じて分離することになった(銀証分離)。しかし今度制定されたグラム・リーチ・ブライリー法は、実質的に銀行の自由な領域を増やし、銀証分離を撤廃した。これをワシントン・ポストは次のように書いた。, ビル・クリントンがホワイトハウスに居た間に強制された投資とグラス・スティーガル法の撤廃はサブプライム融資の幾何級数的な成長に大きく影響し、2007年から2008年の金融危機の伏線となったと主張する者が多い。, 左のグラフを見ると個人消費がGDPへ過剰に貢献していることが分かる。しかし大衆の所得が消費をまかなったわけではない。1980年代から米経済は機関化して、合併等による企業再編を数え切れないほど経験していたが、そこで社会保障をふくめた労働単価は全体的かつ大胆に抑えられた。消費を給与でまかなうことができない人々は、シャドー・バンキング・システムを通して融資を受けた。住宅価格の上昇がもたらした資産効果で住宅ローンが組まれた。証券化により名目GDP対比率でマイナスになるまで貯蓄は減少した。, 2008年、予想を超えた経済恐慌がアメリカと全世界を襲った。最も重大なことはカリフォルニア州とフロリダ州における住宅バブルが弾けたことであり、また住宅価格や建設業界が崩壊したことである。数多くのモーゲージ(抵当権、平均して20万ドル)がCDO(債務担保証券)と呼ばれる証券となり、世界中で再販された。多くの銀行や巨大ファンドが数千億ドルを借金してこれらの証券を買っており、その価値が不明で誰も買おうとしないために今や「毒物」となった。アメリカ合衆国とヨーロッパの大銀行が次々と崩壊した。2008年5月、ベアー・スターンズはJPモルガン・チェースに買収され傘下に入った。また、9月15日にはリーマン・ブラザーズは6130億ドルの負債を抱えて倒産[111]、それを受けてバンク・オブ・アメリカはメリルリンチを吸収合併した。有数の保険会社AIG、トップ銀行のシティグループおよび2つの最大抵当権会社が政府の救済を仰いだ。ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは投資銀行から銀行持株会社に転換を発表し、当局の規制を受けながらも生き残りを模索した。合衆国議会は7000億ドルの救済資金を拠出し(TARP)、資産家と連邦準備制度は金融システムを支えるために数兆ドルを投入したが、景気減退を覆すまでには至らなかった。連邦資金が投入されたにも拘わらず、銀行は貸付政策を劇的に引き締めた。例えば、自動車ローンを得ることも難しくなった。政府は初めて大銀行の主要株主になった。株式市場は40%急落し、資産を10兆ドル減らした。住宅価格は国中で20%低下し、さらに3兆ドルを減らした。2008年遅くまでに困窮は金融や住宅部門以外にも拡がり、特にビッグスリーと言われる自動車産業(ゼネラルモーターズ、フォードおよびクライスラー)は倒産の瀬戸際にあり、小売り部門がかなりの弱さを示した。7000億ドルの問題資産救済プログラムを批判する者は、銀行にばらまかれたその金の大半が行方不明であり、銀行もこの問題を隠していると、怒りを露わにしている。, バラク・オバマ大統領は、財政支出と税金を削減することで8000億ドルから9000億ドルを刺激する法案である2009年アメリカ復興・再投資法を裏書きした。この計画は、経済不況の時に財政支出が個人消費の落ち込みを相殺するというケインズ理論に基づいている。そうでなければ個人消費の落ち込みが永続化し、労働時間や失業という生産資源が浪費されるというものである。批評家は、政府が民間部門から金を借りなければならないために、個人消費の落ち込みを相殺できないと主張している(押し出し効果)。しかし、大半の経済学者はこの押し出し効果がゼロかそれに近い金利であり、経済が停滞気味の時の問題であるとは考えていない。刺激効果に賛成する者は、将来のインフレの可能性とそのような大規模支出によって国債が増える問題を指摘してもいる。, 2012年12月31日にアメリカ合衆国連邦政府の赤字は16兆4000億ドルの債務上限額に達した。デトロイトが財政破綻した翌年7月からシークエスター[112]が、10月には債務上限の上乗せ法案が議会を通らずにガバメントシャットダウンが始まった。同月17日には上限引き上げの時限立法がなされた。ロイターによると、30日に70億ドルのデフォルトに陥った。, ファニー・メイとフレッディ・マックは紙幣を印刷する免許を得たに近い状態となった。この2社は政府が返済を保証するという概念を元に市場利率よりも低い利率で金を借り、市場利率で返済する抵当権付貸付をその金で購入した, ブリテン諸島(イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド)だけでも1800年の人口は1600万人いたと推計されている。, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 70頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 85頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 86頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 96頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 88-91頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 104-107頁, John Corbett, "Robert W. Fogel: The Argument for Wagons and Canals, 1964," (2007), ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 114頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 112頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 113頁, ベンジャミン・グレアム、スペンサー・B・メレディス 『賢明なる投資家 財務諸表編』 パンローリング株式会社 2001年 65頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 208-209頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 797-802頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 879-887頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 956-968頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 968-973頁. Warren D. Devine, Jr. "From Shafts to Wire: Historical Perspective on Electrification". Real Gross Domestic Product, Chained Dollars (A) (Q), Table 1.5.2. 1853年、米財務省によると外国が州債の38%を保有していたが、某銀行によると58%にのぼった[25]。財務省の推計によると、州債務の外国人保有割合はルイジアナで83%、アラバマ州で98%、ペンシルベニア州で66%、マサチューセッツ州で63%、メリーランド州で55%だった[26]。, 北部が人口と製造業で急速に拡大していたのに対し、南部は田園地帯のままであり、資本や工業製品は北部に依存していた。奴隷を含む南部経済の利益は南部が連邦政府を支配する限りにおいてのみ政治力で保護されていた。しかし、人口の少ない南部が合衆国全体をリードしていくには限界があった。1856年に結党された共和党は工業化された北部を代表した。1860年、共和党とその大統領候補エイブラハム・リンカーンは奴隷制の拡大を終わらせ、その代わりに工業、商業および事業の拡大を要求した。1861年には保護関税の採用をうまく取り付けた。1862年、最初の大陸横断鉄道が認可された(1869年開通)。1864年、南北戦争の戦費を賄うために国法銀行制度が設立された。どの都市にも「ファースト・ナショナル銀行」が設立され、その多くは現在も残っている[27]。ニューヨークのそれは、後にジェイコブ・シフの縁戚が経営した。, 北部が南部に比べて工業が進歩していたことは南北戦争(1861年-1865年)での北部勝利を確保させたと見られている。北部の勝利で国の運命とその経済システムを封印した。奴隷労働の仕組みは廃止された。綿花の世界市場価格は急落し南部の大規模プランテーションは利益を生まないものになった[28]。綿花1ポンドの価格は南北戦争終戦時の1ドルから、1870年代平均の20セント、1880年代の9セント、1890年代の7セントと急落していった[29]。1898年までに、1ポンド当たり5セントまで落ち込み、綿花を生産するコストは1ポンド当たり7セントだった[30]。北部の工業は南北戦争の前やその間も急速に拡大し急増した。工業資本家達は社会的および政治的事情を含み国民生活の多くの面を支配するようになった[31]。, 南部の荒廃は甚大であり、住民の貧窮が続いた。白人の収入は下落したが元奴隷の収入は上がった。レコンストラクションの間、鉄道建設が大いに奨励された(多くが破産もした)が、南部は綿花への依存が続いた。元奴隷は賃労働者、小作人あるいは分益小作人になった。これには多くの貧乏白人も加わり、経済よりも人口の方が速く成長した。1940年代までは、重要な製造業と言えば両カロライナ州の繊維工場とアラバマ州の幾つかの製鉄業ぐらいだった[32]。, 共和党急進派のレコンストラクション政策は、自由黒人(解放奴隷) やスキャラワグ(Scalawag, 南部の再編入を支持した南部白人)、カーペットバッガー(Carpetbagger, 南北戦争後に南部にやってきた北部人) らが連携し主導権を持つ州で持続し、鉄道や公立学校の建設を通じた南部の産業・社会の再建と近代化を進展した。しかし彼らは1870年以後、保守的な民主党の派閥で自らをリディーマー(Redeemer, 共和党急進派に対する反動として北部に対抗した保守的な南部人) と呼ぶ反対勢力によって各州の政権を奪われることになった。以上は国内経済に関する説明である。, 戦時中、輸出品目が農産物から単価のより高い工業製品となってゆき、またインフレも加速したので売り手は買い手に早期決済を求めた。売り手は応じてもらえるよう代金を割引いていたが、製品の競争力となったので、インフレが止まってからも割引がつづいた。くわえ輸送手段が充実するにともない、サンプル品による営業が一般化した。こうした事情により、売掛金勘定を設けて早期に現金・小切手決済を求める商習慣が定着した。この手法は次節で述べるような大企業の販売戦略となった。その傾向は1873年恐慌から著しいものとなった。なぜなら、銀行に融資を渋られると売掛債権で自己金融するしかないからである[33]。, 恐慌はジェイ・クック銀行(Jay Cooke & Company)が同年9月に破産したことで引き起こされた。この銀行は南北戦争中に米国債を売り、1871年の政府の合衆国債借換に関与し、1873年に欧州でノーザン・パシフィック鉄道債の販売を企画していた。クック社はイギリスとドイツ帝国の資金を集めようとして失敗した。事件にもかかわらず、翌1874年にアメリカの鉄道証券はロンドンとアムステルダムで大量に販売された。担保証券として保有された証券は、レポ債務がデフォルトすると競売にかけられ、イギリスやスコットランドの投資信託が買い叩いた1852年、N・M・ロスチャイルド&サンズが米国鉄道債に初めて投資した(ペンシルベニア)[34]。, 南北戦争中の1864年に国法銀行制度が生まれ、役員から非居住者を締め出したが、しかし外国株主の参入は制限しなかった。州法銀行には税金を課して国法銀行への転換を促したが、1880年以降は規制緩和で州法銀行が増加した。外銀は規制の厳しかったニューヨーク州以外の州に多くの支店を設置してコルレス網を組んだ。1875年、香港上海銀行のサンフランシスコ支店が設立された。外為取引と銀塊購入に特化し、チャイナタウンに居住する何千万人もの中国人が母国へ送金する仲介をした。1876年に設立されたサンフランシスコ決済取引所組合は、15会員のうち6会員が外資系であった。そこへ翌1877年ラザードが参加した。シカゴではモントリオール銀行が決済取引所に参加して、イリノイ州最大の銀行に成長していった。[35], 南北戦争後の急速な経済成長は現代のアメリカ合衆国産業経済の基盤を造った。

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