経済は見事な復活を遂げています。 もう怖くて死にたいです。 映画『心霊喫茶「エクストラ」の秘密-The Real Exorcist-』デジタル先行配信が決定!&台湾での上映スタート!, 千眼美子withリトル・アンツによる「バナナ」がTop Shorts Film Festival名誉楽曲賞を受賞!!, 嘘をつく宏洋氏との明らかな違い 宗教家としての本道を生きる大川咲也加氏の「考え方」, 宏洋氏の本『幸福の科学との訣別』の嘘と虚妄(5) 出版した文春は恥ずかしくないのか. 東京大空襲と重慶爆撃の違い / 過去の歴史を書くとき、自国(自分)の美点は過大評価し、汚点は極力小さく扱いがちだ。逆に敵(だった)国家の残虐性や犯罪性は誇張したり歪曲し、美点は黙殺するか、小さく扱う。 なぜか。それは現在の自国家の活力と繁栄を助長する一 そういう風に自分に言い聞かせていますが安心できません。   ノドン2号は旧ソ連が開発したスカッドの亜種で、1,300kmの射程を持つと言われています。一方テポドンは1段目にノドンを使い、2段目にスカッドの弾体を結合して作った2段式弾道ミサイルで、射程も1,700km~2,200kmと見積もられています(射程および発射速度から中距離弾頭ミサイルとする記述もあります。が正直、どの数値が正しいという確証がないため、かなり曖昧な分類となっていることは確かなようです)。 「シンガポール華僑虐殺事件」1942年2月15日  それに対して、わが国では大日本帝国と日本国を切り分けることが終戦時の条件の相違から難しかったし、あえてあいまいにもしてきたので、戦前の罪を認めることにもあいまいさが付きまといました。 日本人一人当たりのGDPがドイツに追いついたのは70-80年代です。, なかなか難しい質問をしますね。 日韓両軍による朝鮮東学党農民に対する苛烈な掃討作戦。日本軍の記録によれば戦闘で6000人、処刑5600人とされているが、5万人という説もある。 1についてですが、上記の目的を満たす為に、投下する都市は↓のような経緯で選ばれています。  もっとも、近年は歴史修正主義と称して「ドイツの罪と言われるものには誤りがある」とか「言われるほどではなかった」という論調もありますが、いつもそういった主張は批判を浴びてきましたし、いまでも文学者のギュンター・グラスのようにナチスであった過去は批判の対象となります。表だって公言することがはばかられる言説なのです。 未来が怖い。よくわかります。誰しもが、怖いのです。そして、質問者様の年齢ぐらいなら、その怖さはきっとお母様や僕といった人たちより、何倍も強いものだと思います。  皆さんの賛同を得られない「回答」であることは承知しておりますが、わたしが理解しているかぎりではご質問に対する答えはこうです。 という分類ができると思うのですが、 「九州大医学部生体解剖事件」1945年5月17日~6月2日  3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲でした。目標地域に4か所の爆撃照準点を設定し、そこにまず大型の50キロ焼夷弾を投下しました。これにより、大火災を起こし、日本側の消火活動をまひさせ、その後小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たしました。 石垣島で米兵捕虜3名が処刑される。 原爆使用の目的は↓です。  広島は投下されたLittle Boyは13kt(ウラン235)により20万人の犠牲者をだし、長崎もFatmanが22kt(プルトニウム)によりは7万4千人が数箇月の間に亡くなり、その後の調査で死亡者数が15万人にも達しました。平坦な広島に対して山間部による起伏が被害を減少させたのです。 イラクのクエート攻撃に対して またアメリカ国内の人種差別を知らないのでしょうか。 これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、 1944年2月22日、伊37潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。 インドネシア・ポンナチャックで発生した大規模な住民検挙粛清事件。被害者数4000~2万人 しかし、アメリカは曖昧な降伏条件(国体の護持、天皇制の維持等が保証されていない)を出すことで、日本が降伏できないようにして、原爆を使用する準備をしました。 戦時中又は原爆投下や空襲においての人々の被害状況などはどういうものだったのでしょうか.  4月15日の大空襲では蒲田区などの東京南部から川崎にかけての工場地帯と住宅地が空襲されました。東京には、109機のB29が754トンの焼夷弾と15トンの爆弾を投下しました。蒲田区はほとんど全域が焼かれました。この日の東京の被害は、罹災家屋約5万戸、罹災者約21万人で、死者は警視庁の調べでは841人、東京都の調べでは903人になりました。 少し話題に出ましたが)、 「カラゴン事件」1945年7月 原爆使用の目的は↓です。  簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。 過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分 ごはんもおいしく感じないし、なかなか眠れないし、ずっと不安に追われています 「メリッソ村民虐殺事件」1944年7月15日 死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。 早く戦争を終わらせるためという理由だけでしたら、同じ種類の原爆でいいんじゃないかなと思ったのです。 日本の経済力が飛躍的に上がったのはWW1(1914-18)の時ですが、WW1後ですら日本の工業は繊維(生糸や綿織物)などの軽工業が中心でしたし、第一次産業に就業する人が国民の50%を占めていたのでむしろ農業国だったといえます。 湾岸戦争 1990年 では 真実が明らかにされました。 シンガポール陥落の当日、日本軍が英軍アレクサンドラ病院を襲撃。軍医、看護婦、患者を殺害。被害者数200名 31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に 戦争では【国際法】がそれにあたります。 とも言われてしまいました。学校も心配で楽しくありません。 よろしくおねがいします。, ■他サイトで同じような質問に答えているのですが、解りやすく新たなデータを追加したため長文となってしまいました。 全ての力を戦争に注ぎ込んでもちょっと本気を出したアメリカに一蹴される程度の国力でした。 日本陸海軍航空部隊が首都重慶に対し反復実施した大規模な戦略爆撃で多数の民間人死傷者を出した事件。しかし戦犯として訴追された日本人なし。 心配で死にそうです。 (降伏条件の起草段階では天皇制の維持が含まれていましたが、トルーマンはこの部分を変更しています。) もう怖く...続きを読む, 戦争は、一般的な常識を持った人なら、だれしもがしたくもないと思っているものです。日本は今平和ですが、日本以外では紛争や戦争が起き、憎しみの連鎖が起こっています。それは日本から遠く離れた国々だけでなく、日本に近い国々も同様です。 日本人が「個人」として裁かれるなら、原爆の使用を決定した者も裁かれるべきである。】 事件の概要と年月日を教えていただければ、後は自分で調べます。 1:原爆(2種類)の効果を、実際の都市や人間で確かめ、データをとる事。 同じアメリカ人同士ですらこの有様なので、日本人への扱いは更に酷いものでした。 「朝鮮東学党に対する掃討作戦」(1894年8月~1895年3月) また、機会がありましたらよろしくお願いします。, ならば朝鮮人も日本の統治時代を有難く思うのが自己責任と言うことですね。 まず、東京空襲の一般民間人の被害全体についてみると、東京の区部が被害を受けた空襲は60回を越えます。確認された死者の遺体数は約10万5400人になります。負傷者は約15万人で、罹災者は約300万人、罹災住宅戸数は約70万戸です。焼失面積は約140㎢で、区部の市街地の約50%、区部面積の約25%に当たります。三多摩や伊豆諸島・小笠原を含む東京都全体では、空襲は100回を越えています。東京大空襲は、第二次世界大戦の連合国による植民地・占領地も含む日本空襲の一環です。東京への本格的な空襲は1945年3月10日の下町への大空襲を境に区分されます。, アメリカ軍による日本本土への初空襲は1942年4月18日に行われましたが、それは空母から陸上爆撃機B25を発進させた奇襲攻撃で、東京には13機が来襲しました。東京では品川区の工場、荒川区尾久の住宅などが爆撃され、尾久では一家6人が焼死するという被害を受けています。それ以外にも牛込区の早稲田中学や葛飾区の水元国民学校高等科の生徒も銃撃により死亡しました。あわせて東京で41人が亡くなっています。 【何故我々が、白人と戦っている日本人と戦争をしなければならないんだ】 「朝鮮東学党に対する掃討作戦」(1894年8月~1895年3月)  5月25~26日の大空襲では、24日の空襲地域の北側の、政府機関、金融・商業の中枢機関が集中する都心地域と、都心から杉並区にかけての西部住宅地が空襲されました。宮城(現・皇居)内の宮殿も焼失しました。この地域の空襲では、高層のコンクリートの建物もあるため、油脂焼夷弾だけではなく、貫通力の強い焼夷弾も使われました。464機のB29が3258トンの焼夷弾と4トンの爆弾を投下しました。被害は、罹災家屋約16万戸、罹災者約56万人で、死者は警視庁の調べでは3242人、東京都の調べでは3352人です。  真中 Centrist(中間主義) 日本軍によるインドネシア・アンボンのラハ飛行場占領時に約200人の捕虜を殺害した事件。 2:他国に使用可能な核保有国であることを示し、戦後の国際関係で優位に立つ為。 「バンカ島豪軍看護婦殺害事件」1942年2月 その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し 「重慶戦略爆撃」(1938年12月~1941年9月) 母にも何度も大丈夫?と聞いていますが、皆したくないと思っているから大丈夫。と  現在、北朝鮮は20kt級核爆弾を7~8発製造可能なプルトニウムを抽出していると観られています。 また、機会がありましたらよろしくお願いします。, ならばなぜ朝鮮人は日本の統治時代を喜ばないのでしょうか?  ・もしそうでしたら、何がうまくいっていると言われているのでしょうか? あのイラク戦争のようにです。 4、戦争はもちろん嫌です。そして、怖い。しないにこしたことがありません。ただ僕は、予備自衛官という予備役というものですので、戦争があれば行かなければならないかもしれません。なので、非常に怖いです^^; マーシャル諸島ヤルート島で陸海軍将校が島民21名を殺害。 心配で死にそうです。 「南京虐殺事件」(1937年12月) 対立する意見の者を「ネトウヨ」と呼んで、「歴史の一部」だけを取り出して、「事実」を歪曲したり、印象操作、誤解、させるのは愚の骨頂である。ということを書き加えさせて頂きます。  伊豆諸島・小笠原では、32回の空襲があり、民間人48人が死亡しています。, 3月10日以降の空襲では、膨大な数の死者が出て、無数の死体の山ができました。「戦場掃除」と呼ばれる前線での死体処理と同じような乱暴な扱いで、遺体が片付けられました。通常の埋葬ができないので、公園や寺院の境内などに穴を掘って遺体を埋める仮埋葬がなされました。その数は3月~5月にかけての大空襲で、約9万4800人であり、そのうち約8000人のみは名前がわかり個別に埋葬されましたが、それ以外は合葬されました。仮埋葬された遺体は3~5年後に掘り返されて、火葬されました。遺骨は東京都慰霊堂に安置されました。その後も、遺族などに引き取られる遺骨は少なく、今でも、約8万人の遺骨が残されています。別に焼け跡で現場火葬も行われました。 よろしくお願いいたします。, 質問の主旨は↓でよいのでしょうか。 日露戦争の時(1904-05...続きを読む, 日本はこれから100年以内に戦争をしてしまうのでしょうか? ということになり戦争が始まっています。 アメリカは、↑の条件をより満たす為に、広島への空襲を停止して建築物を保存し、人口を集中させました。  ・また、日本以上に問題がこじれているものはないのでしょうか?  4月13~14日の城北大空襲について、アメリカ軍は王子区の陸軍兵器工場をねらったとしていますが、実際はそれより南の豊島区、滝野川区、荒川区などの住宅地が焼かれました。328機のB29が2038トンの焼夷弾と82トンの爆弾を投下しました。被害は、罹災家屋約17万戸、罹災者約64万人で、死者は警視庁の調べでは2450人、東京都の調べでは1661人になります。 植民地統治も仕方がないと思うとります。 【戦争は国家の行為であり、戦争指導者であっても個人に責任は発生しない。  日本が「官民一体」ならば、仏・英・独は「民なしの、官のみ」だ。官に逆らった経営者たちのハイリスクな事業計画、前例を尊ぶ官僚にはとてもできない。戦後の荒廃はどの国も同じ、日本は度胸のある経営者が力を発揮できる自由な経済体制だった。進化論に例えれば、突然変異が出やすく、育ちやすい環境だったと言える。 私は、今頃戦争をしても何にも利益はないと思っています。 戦争に勝てばなんでも「あり」ではないと思うとります。, 「広島 戦争」に関するQ&A: 8月6日は広島原爆記念日でしたね。皆さんは戦争をどう思いますか?, 「アメリカ 戦争」に関するQ&A: 2001年の9.11はアメリカが戦争をしたいがためにしたアメリカが起こした事件ですか?, 「長崎 小学校」に関するQ&A: 「窓から飛び降りて!」長崎県雲仙市・小学校教諭, 「長崎 戦争」に関するQ&A: もし、広島長崎がなかったとして、核戦争はおこっていたのでしょうか, 「インドネシア 歴史」に関するQ&A: インドネシアの高校生向けの歴史教科書に, 戦争は勝てば官軍ですから つまり、マンガ雑誌で例えればガンガンとジャンプを比べてみてください。 それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に あのイラク戦争のようにです。 A:周囲を山に囲まれた直径3マイル以上の市街地を持つ都市。 撃墜され落下傘降下した米兵を捕らえ処刑の後、その肉を食べた事件。当時の父島は食料に困っていたわけではなかった。 あまり安心できない答えが返ってきます。 (いいだ・たけし)1959年、東京都品川区生まれ。東京都立大学経済学部卒。有限会社飯田商会・代表取締役。沖縄浦添市fm21「へんまもレイディオ」、ネット番組「名もなきサムライたち」などにおいて、コメンテーターとして出演。著作に『海軍特別救助隊』(元就出版社)など。, 1945年(昭和20年)3月10日の未明、約300機のB29爆撃機が、無差別爆撃を決行しました。現在の江東区や墨田区など木造建築が連なった下町を中心に、33万発もの焼夷弾を投下。一夜にして東京の街は火の海と化し、10万人もの一般市民が亡くなりました。被害家屋は約27万戸、焼き出されるなどした人は推計で100万人に上ります。, 犠牲者を慰霊している「東京都慰霊堂」(墨田区)を参拝したことがありますが、言葉に尽くせない思いでした。, 当初アメリカは、日本の軍施設や軍需工場に対象を限定した、高高度からの精密爆撃を行っていました。しかし、成果が上がらず、指揮官は更迭。後を継いだカーチス・E・ルメイ将軍が、大量の焼夷弾で都市を焼き払う戦術に切り替えたのです。欧米と違い、当時の日本ではほとんどの建造物が木造だったため、焼夷弾攻撃は致命的なほどに有効です。つまり、計画段階において、都市のせん滅とそこに住む一般市民の虐殺を目的としていたのです。, もしも兵士が、無抵抗の市民をピストルで射殺すれば、当然、戦争犯罪です。武器を持たない丸腰の市民を、小銃や機関銃で射殺しても戦争犯罪になります。, さらに、一般市民しかいないことがわかっている家屋や集落を、大砲で砲撃して殺したとしても、戦争犯罪です。逃げる子供たちを戦車や戦闘機で銃撃しても同じです。では、焼夷弾の爆撃で市民を大量虐殺すればどうでしょうか。これも当然のこととして、戦争犯罪にあたります。, また、東京大空襲は、一般市民を対象とした「無差別爆撃」ですが、これも、国際法に違反する戦争犯罪です。, 「無差別爆撃」に近い言葉として、「絨毯(じゅうたん)爆撃」というものがあります。敵国民の士気の喪失を目的とした戦略爆撃で、大編隊を組んだ大型爆撃機が絨毯を敷くように、一帯を爆撃しながら通過するというものです。, まず、地域一体を外部から焼夷弾で包囲して、住民を火の海で囲い込む。そして、袋小路に追い込まれた住民を狙って焼夷弾を落としたのです。これは、戦場で一部兵士が残虐行為をするといったようなものではありません。国家が行う軍事作戦として、敵国の都市を破壊しつくし、非戦闘員である市民の皆殺しを企てたのです。, 特に、大東亜戦争のような国家総力戦では、青壮年の男性は戦闘員として戦場にいます。都市への爆撃で命を奪われるのは、女性やお年寄り、子供たちです。有色人種への差別観が、人を人とも思わない残虐行為の前提にあったのだと思います。, 「かつての日本は、軍国主義の悪い国であった。アジアを侵略して我が物とするために、侵略戦争を仕掛けて、何千万人ものアジアの人たちを殺害した」, 「無謀な侵略戦争を行ったことによって、日本は悲惨な敗戦を迎えた。そして、その敗北の過程で本土が空襲を受けた。科学技術と物量で全く日本は欧米に歯が立たず、空襲は阻止できなかった。多くの市民が犠牲となったが、これは日本の軍国主義と侵略戦争に対する当然の報いである」, 実は、こうした「自虐史観」は、アメリカが、自国の虐殺行為を正当化するため、日本人に植え付けたものなのです。, アメリカは戦後、あらゆる手段を用いて日本人を「洗脳」してきました。それを大々的におこなったのが、GHQ、連合国総司令部でした。彼らが、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」と呼ばれる洗脳工作によって、日本人を骨抜きにしたのです。, 具体的にどのようなことをしたかと言うと、例えば、大戦が終結した1945年(昭和二十年)の12月には、当時不足していた新聞用紙を新聞社に特別配給し、日本軍の残虐性を強調した「太平洋戦史」を連載させました。, また、GHQ民間情報教育局が自ら構成し、「真相はかうだ」というラジオ番組を始めました。これは、ドキュメンタリー形式を装ったドラマ仕立てで、日本軍を指揮した軍国主義者の「悪」を描いたもの。あまりにも内容に問題があったため、全国から苦情が殺到したそうですが、GHQはその後も番組名や内容を変えながら洗脳番組を継続しました。, さらに、新聞社もすべてGHQの手先と成り果てます。先ほど、「太平洋戦史」連載で紙が特配されたと記したように、当時は、新聞や雑誌用の紙自体が手に入りにくい状態。紙の供給を止めると脅されれば、新聞社は手も足も出ません。かくして、GHQによる新聞や雑誌への検閲が徹底されました。戦前にも検閲も言論統制があったではないか、という反論もありましょう。しかし、GHQの検閲は、想像を絶する規模、徹底ぶりのものでした。, 例えば、伏せ字にしたり塗りつぶしたりしてあれば、検閲の事実が国民にわかりますし、どんな文章なのかも推察できます。しかし、GHQが行った検閲では全部を書き直させるため、痕跡が残りません。そして検閲をしていること自体を秘匿していたため、国民は自分たちが言論統制されていることすら認識できませんでした。, こうしたアメリカの徹底的な洗脳工作によって、今なお多くの日本人が、「原爆も空襲もされて仕方がない国だったのだ」と思っています。, しかし、今こそ、こうした「呪縛」から解き放たれ、日本人としての誇りを取り戻すべきです。そうしてこそ、東京大空襲で犠牲となった方々への弔いとなるのではないでしょうか。, 2019年1月29日付本欄 辺野古反対、逆に戦争招く 今知りたい「日英同盟」の反省, 「自由・民主・信仰」のために活躍する世界の識者への取材や、YouTube番組「未来編集」の配信を通じ、「自由の創設」のための報道を行っていきたいと考えています。 「ザ・リバティWeb」協賛金のご案内. なので、日本の戦争指導者が個人として責任を追及されているのは間違っている。 戦争は、誰もが怖いです、あなただけではありません。だから、安心してください。悩みすぎないでください。何かあれば、自衛隊が必ずこの国とあなたを守ります。だから、心配しないでください。怖がらないでください。あなたが悲しめば、お母さんも悲しみます。 米国とはああいう国なのです。 何度母に大丈夫といわれても、心配で心配で繰り返し同じことを聞いたので、精神科に行く? これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、 All Rights Reserved. 島民140名に終戦を告げた後、全員をがけの上で銃殺。, 「世界戦争犯罪辞典」(編・秦郁彦、文藝春秋)を入手していただくのが一番手っ取り早いと思いますが、手元にありますので、日本軍関連のものをピックアップしてみました。 【概要】旧軍人・軍属、民間人被災者の戦後補償-放置される民間人; photo:Wikimedia, public domain トップ画像:東京大空襲によって焦土と化した東京。両国駅付近上空から南(東京湾方面)に向かい撮 …  自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。  ドイツの「謝罪」に対する不充分さはほかの方も指摘しているとおりですが、いっぽうで「和解」を獲得するための努力は真剣なものでした。一例としてドイツが放棄した歴史的領土は日本の比ではありません。ドイツは全体としてアメリカの世界戦略にしたがいながらも、この一点では独自の外交路線をつらぬいたのです。EUは伊達や酔狂で成立したわけではありません。 ハーグ開戦条約に違反するとされ、この相殺として原爆投下が正当化された。 1944年7月2日、伊8が米商船を撃沈した際、揚収した生存者96名を甲板に放置し急速潜行。 アメリカは太平洋戦争で東京大空襲や広島長崎への原爆投下で民間人を無差別に 未来が怖いです。もう死んでしまいたいです。助けてください。安心させてください。, 日本はこれから100年以内に戦争をしてしまうのでしょうか?  北朝鮮が保有する弾道ミサイルで、日本への発射が懸念される物にノドン2号とテポドン1号ミサイルがあります。 重巡利根が英商船「ビハール号」を撃沈した際、揚収した生存者60名を甲板で処刑。 支那事変初期において内モンゴルの陽高で関東軍チャハル兵団(兵団長:東条英機)が引き起こした中国人虐殺事件。被害者数350~500名。 聖パウロ大学で子供を含む994名を殺害。北部墓地で2000名を処刑。サンチャゴ監獄での集団殺害など。  ・本当にナチスドイツの謝罪はうまくいっているのでしょうか?  フランス──戦後のフランスはジャン・モネの考えによる「フランスは未だ十分に市場が成熟していないの...続きを読む, ・左派、革新、社会主義 です。, 旧日本軍が関わった民間人虐殺など戦争犯罪行為をリストアップし、ひとつずつ調べていこうと思っています。 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカ軍により行われた、東京都区部に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、民間人に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上、負傷者は約15万人以上、損害家屋は約85万戸となった[2]。, 東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降[3]、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。, その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)を指す[4][5]。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた[5]。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた[2]。, 1942年にはナパームを使ったM69焼夷弾が開発され、1943年の国家防衛調査委員会 (NDRC) 焼夷弾研究開発部のレポートでは、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災を起こし、住宅と工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法であるとした上で、空爆目標の日本全国20都市を選定、さらに東京、川崎、横浜など10都市については焼夷弾爆撃の有効度によって地域を以下のように区分した[6][7]。, 日本本土に対する空襲作戦は、綿密な地勢調査と歴史事例の研究を踏まえて立案されていった。その過程はアメリカ経済戦争局の1943年2月15日付報告書「日本の都市に対する大規模攻撃の経済的意義」に詳しい。, アメリカ軍は早くから江戸時代に頻発した江戸の大火や1923年の関東大震災の検証を行い、火元・風向き・延焼状況・被災実態などの要素が詳細に分析されていた。その結果、木造住宅が密集する日本の大都市は火災に対して特に脆弱であり、焼夷弾による空襲が最も大規模な破壊を最も効果的に与えることができると結論されていた。, 具体的な空襲対象地域の選定に際しては、人口密度・火災危険度・輸送機関と工場の配置などの要素が徹底的に検討され、それを元に爆弾爆撃有効度が計算されて一覧表が作成された[6]。ここで特に重視されたのは人口密度だった。当時の東京各区の人口は浅草区の13万5000人が最大で、これに本所区・神田区・下谷区・荒川区・日本橋区・荏原区が8万人台で次いでいた。このうち荏原区は他から離れた郊外に位置するためこれを除き、替わりに人口7万人台の深川区の北半分を加えた都心一帯が、焼夷弾攻撃地域第一号に策定された[6]。, アメリカ陸軍航空隊の伝統的なドクトリンは軍事目標に対しての精密爆撃であり、第二次世界大戦が始まった当時は航空機から投下する焼夷弾を保有していなかった。焼夷弾の開発に迫られたアメリカ軍はアメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将自らイギリスに飛んでイギリス軍の焼夷弾と、イギリス軍がロンドン空襲において回収していたドイツ軍の不発弾(900gマグネシウム弾)を譲り受けて焼夷弾の開発を開始した[8]。, 連合国は、東京市に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を初めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガス・ホスゲンなどが候補に挙がっていた[15]。アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは「我々が即座に使え、アメリカ人の生命の損失が間違いなく低減され、物理的に戦争終結を早めるもので、我々がこれまで使用していない唯一の兵器は毒ガスである」とも述べていた。アメリカ陸軍はマスタードガスとホスゲンを詰め込んださまざまなサイズの航空爆弾を86,000発を準備する計画も進めていた[16]。また、アメリカ軍は日本の農産物に対する有毒兵器の使用も計画していた。1942年にメリーランド州ベルツビル(英語版)にあるアメリカ合衆国農務省研究本部でアメリカ陸軍の要請により日本の特定の農産物を枯れ死にさせる生物兵器となる細菌の研究が開始された。しかし、日本の主要な農産物である米やサツマイモなどは細菌に対して極めて抵抗力が強いことが判明したので、細菌ではなく化学物質の散布を行うこととなり、実際に日本の耕作地帯にB-29で原油と廃油を散布したが効果はなかった。さらに検討が進められて、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸を農作物の灌漑用水に散布する計画も進められた[17]。, 人間に対して使用する細菌兵器の開発も進められた。炭疽菌を充填するための爆弾容器100万個が発注され、ダウンフォール作戦までにはその倍以上の数の炭疽菌が充填された爆弾が生産される計画であった。これら生物兵器や化学兵器の使用について、1944年7月にダグラス・マッカーサー大将たちとの作戦会議のためハワイへ向かうフランクリン・ルーズベルト大統領を乗せた重巡洋艦ボルチモア艦内で激しい議論が交わされた。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒは「大統領閣下、生物兵器や化学兵器の使用は今まで私が耳にしてきたキリスト教の倫理にも、一般に認められている戦争のあらゆる法律にも背くことになります。これは敵の非戦闘員への攻撃になるでしょう。その結果は明らかです。我々が使えば、敵も使用するでしょう」とルーズベルトに反対意見を述べたが、ルーズベルトは否定も肯定もせず曖昧な返事に終始したという。結局、生物兵器や化学兵器が使われる前に戦争は終結した[18]。, 1942年4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲が航空母艦からのB-25爆撃機で行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が罹災し、幼児らを含む一般都民が無残な黒焦げの死体となった[19][20]。死者は39人[21]。, 1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、焼夷弾の使用に関しても言及[22]。この時、アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[23]。, 1944年からのマリアナ・パラオ諸島の戦いでマリアナ諸島に進出したアメリカ軍は、6月15日にサイパンの戦いでサイパン島に上陸したわずか6日後、まだ島内で激戦が戦われている最中に、日本軍が造成したアスリート飛行場を占領するや、砲爆撃で開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、翌日にはP-47戦闘機部隊を進出させている。その後、飛行場の名称を上陸3日前にサイパンを爆撃任務中に日本軍に撃墜され戦死したロバート・H・イズリー中佐に因んでコンロイ・イズリー飛行場(現在サイパン国際空港)改名、飛行場の長さ・幅を大幅な拡張工事を行い新鋭爆撃機B-29の運用が可能な飛行場とし、10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した[24]。同様に、グアムでも8月10日にグアムの戦いでアメリカ軍が占領すると、日本軍が造成中であった滑走路を利用してアンダーセン空軍基地など3か所の飛行場が建設され、8月1日に占領したテニアン島にもハゴイ飛行場(現・ノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在テニアン国際空港)が建設された。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、これらの巨大基地の建設によりB-29の攻撃圏内に東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった[25]。日本ではマリアナ諸島陥落の責任を東条内閣に求め、1944年7月18日に内閣総辞職した[25]。, 1944年10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であったヘイウッド・ハンセル准将が任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ[26]。第20爆撃機集団が中国を出撃基地として1944年6月15日より開始した九州北部への爆撃は、八幡製鐵所などの製鉄所を主目標として行われていたが、これまでの爆撃の効果を分析した結果、日本へ勝利するためにはまずは航空機工場を破壊した方がいいのではないかという結論となった。当時の日本の航空機産業は、三菱重工業、中島飛行機、川崎航空機工業の3社で80%のシェアを占めていたが、その航空機工場の大半が、東京、名古屋、大阪などの大都市に集中しており、新たな爆撃目標1,000か所がリストアップされたが、その中では三都市圏の航空機工場が最優先目標とされた[24]。次いで、都市地域市街地が目標としてリストアップされたが、都市地域は、主要目標である航空機工場が雲に妨げられて目視による精密爆撃ができない場合に、雲の上からレーダー爆撃するための目標とされていた。同時に都市圏の爆撃については、精密爆撃だけではなく、焼夷弾による絨毯爆撃も行って、その効果を精密爆撃の効果と比較する任務も課せられた。したがってアメリカ軍はマリアナ諸島からの出撃を機に都市圏への焼夷弾による無差別爆撃に舵をきっていたことになる[27]。, 1944年11月1日にB-29の偵察型F-13のトウキョウローズがドーリットル以来東京上空を飛行した。日本軍は帝都初侵入のB-29を撃墜してアメリカ軍の出鼻をくじこうと陸海軍の戦闘機多数を出撃させたが、高度10,000m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はトウキョウローズを捉えることができなかった。なかには接敵に成功した日本軍機もあり、40分以上もかけてようやく高度11,400mに達しトウキョウローズを目視したが、トウキョウローズはさらにその上空を飛行しており攻撃することはできず、ゆうゆうと海上に離脱していった[28]。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨーなど合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した[29]。これらの機が撮影した7,000枚もの偵察写真がのちの東京空襲の貴重な資料となった。この後もF-13は東京初空襲まで17回に渡って偵察活動を行ったが、日本軍が撃墜できたF-13はわずか1機に過ぎなかった[30]。この夜に日本軍は、対連合軍兵士向けのプロパンガンダ放送「ゼロ・アワー」で女性アナウンサー東京ローズに「東京に最初の爆弾が落とされると、6時間後にはサイパンのアメリカ人は一人も生きていないでしょう」という警告を行わせているが、B-29の東京侵入を防ぐことが不可能なのは明らかとなった[31]。, 11月11日に予定していた東京初空襲は天候に恵まれず延期が続いていたが、11月24日にようやく天候が回復したため、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。主要目標は中島飛行機の武蔵製作所であった。作戦名は「サン・アントニオ1号作戦」と名付けられた[32]。1号機の「ドーントレス・ドッティ」には第73爆撃航空団司令のエメット・オドネル准将が乗り込んで、機長を押しのけて自ら操縦桿を握った。東京上空はひどい天候であったが、特にB-29の操縦員を驚かせたのが、高高度を飛行中に120ノット(220㎞/h)で吹き荒れていた強風であった。これはのちにジェット気流であることが判明したが、その強風にのったB-29は対地速度が720㎞/hにもなり、目標に到達できなかったり、故障で爆撃を断念する機が続出した。このジェット気流はこのあともB-29を悩ませることになった[33]。出撃したB-29の111機のうち、主要目標の武蔵製作所に達したのはわずか24機であり、ノルデン爆撃照準器を使って工場施設に限定精密照準爆撃を行なったが、投下した爆弾が目標から大きく外れるなどした結果、命中率は2%程度で[34]、主要目標の工場施設の損害は軽微であった[35]。主要目標に達することができなかった64機は2次目標であった港湾及び東京市街地へ爆弾を投弾したが、うち35機が雲の上からのレーダー爆撃で正確性を欠き、被害は少なく、死者57人と負傷者75人が生じた[19]。, 東部軍司令部には、小笠原諸島に設置されたレーダーや対空監視所から続々と大編隊接近の情報が寄せられたため、明らかに東京空襲を意図していると判断、隷下の第10飛行師団に迎撃を命じ、正午に空襲警報を発令した[36]。迎撃には陸軍航空隊のほか、第三〇二海軍航空隊も加わり、鍾馗、零戦、飛燕、屠龍、月光といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94機となったB-29に襲い掛かったが、B-29は9,150mの高高度で進行してきたため[37]、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外の日本軍の反撃の低調さに胸をなでおろしている[38]。それでも日本軍は震天制空隊の見田義雄伍長の鍾馗の体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果と未帰還6機を報じたが[35]、アメリカ側の記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている[38][39]。, 1944年11月29日深夜から30日未明にかけて、第73爆撃航空団所属29機が初めて東京市街地へ夜間爆撃を行った。名目上は東京工業地帯が目標とされたが、実際は「サン・アントニオ1号作戦」や11月27日に行われた「サン・アントニオ2号作戦」と異なり、航空機工場などの特定の施設を目標としない東京の市街地への無差別焼夷弾攻撃であり、のちの東京への大規模焼夷弾攻撃に通じるものであった。作戦名は「ブルックリン1号作戦」と名付けられ[32]、B-29は11月29日22時30分から11月30日5時50分にかけて数次の波状攻撃で神田区や日本橋区を爆撃し、火災は夜明けまで続いた[40]。10,000mからの高高度爆撃ながら、この日の東京は雨が降っており雲の上からのレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は、死者32人、家屋2,952戸と限定的であったが[19]、日本軍も雨天によりまともな迎撃ができず、B-29の損失は、ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機のみであった[41]。, その後も12月3日の「サン・アントニオ3号作戦」で主要目標の武蔵製作所を爆撃できなかったB-29が、杉並区、板橋区などの市街地に爆弾を投弾し死者184人が生じたが[19]、このように主要目標は航空機工場などの軍事目標としながら、主要目標に爆撃できなかったB-29による市街地への爆撃が恒常化し[34]、1944年の年末までに東京市街地へは10回の空襲があったが、心理的効果はあったものの実質的な効果は少なかった。一方で東京以外での航空機工場に対する高高度精密爆撃は効果を挙げつつあり、12月13日のB-29の75機による名古屋の三菱発動機工場に対する空襲(メンフィス1号作戦)は8,000mから9,800mの高高度からの精密爆撃であったが[42]、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した[43]。12月18日にも再度ハンセルは名古屋爆撃を命じたが、今回の目標は三菱の飛行機組み立て工場であった。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが[44]、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった[45]。, ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げていたころ、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官カーチス・ルメイ准将は、焼夷弾を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験として、日本軍占領下の中国漢口市街地に対して中国成都基地を出撃した84機のB-29に500トンもの焼夷弾を投下を命じた(漢口大空襲)。漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰にして、漢口の中国人住民約20,000人が死亡した[46]。この爆撃により、市街地への無差別爆撃の有効性が証明されて、ルメイは自信をつけ、上官のアーノルドはルメイを高く評価することとなった[8]。, 漢口で焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいと判断した第20空軍は、参謀長ローリス・ノースタッド准将を通じてハンセルに名古屋市街への全面的な焼夷弾による無差別爆撃を指示した[47]。ハンセルは市街地への無差別焼夷弾爆撃の効果に懐疑的であり、アーノルドに対して「我々の任務は、主要な軍事、工業目標に対して精密爆撃を行うことで、市街地への焼夷弾攻撃は承服しがたい」と手紙を書いて直接抗議したが、アーノルドはノースタッドを通じて、焼夷弾による無差別爆撃はあくまでも実験であり「将来の計画の必要性から出た特別の要求に過ぎない」と説いて、ハンセルは納得しないままで、翌1945年1月3日に、アーノルドの命令通りに名古屋の市街地への実験的な焼夷弾攻撃を97機のB-29により行ったが、死者70人、負傷者346人、被害戸数3,588戸と被害は限定的であり、日本側には空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになった[48]。, 年も押し迫った1944年12月27日にハンセルは今年1年の総括を「その結果は頼もしいものであるが。我々が求めている標準には遠く及ばない」「我々はまだ初期の実験段階にある。我々は学ぶべきことの多くを、解決すべき多くの作戦的、技術的問題を抱えている。しかし、我々の実験のいくつかは、満足とまではいかないとしても、喜ばしい結果を得ており、B-29は偉大な戦争兵器であることを立証した」と報道関係者に発表したが、この見解はアーノルドを失望させた。アーノルドはすでにB-29は実験段階を終えて戦争兵器としての価値を確立しており、それはルメイの第20爆撃集団が証明しつつあると考えていたので、ハンセルの見解とは全く異なっていた[49]。また、アーノルドはかつて「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」とハンセルを叱責したこともあった。18万ドルのB-17に対して、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であったのにも関わらず、挙げた成果に見合わない大きな損害を被ったハンセルに対する不信感もあって[50]、前々から検討してきた通りにハンセルを更迭しルメイにB-29を任せることにしている[49]。, 1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり、2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった[49]。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った[51]。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された[52]。第20爆撃集団はルメイ離任後にはクアラルンプールに司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している[53]。, 戦後ハンセルは「もし自分が指揮を執り続けていたら大規模な地域爆撃(無差別爆撃)を行わなかっただろう。自分の罷免は精密爆撃から地域爆撃への政策転換の結果である」と語っているが、実際はハンセルの任期中でも、あくまでも主目標は航空機工場などの軍事的目標としながら、東京の市街地へも焼夷弾攻撃を行ったり[54]、アーノルドからの圧力とはいえ、市街地への無差別爆撃の準備を進め実験的に実行していた[55]。, 1945年1月27日、B-29は中島飛行機武蔵製作所を爆撃するため76機が出撃したが(エンキンドル3号作戦)、うち56機が第2次目標の東京市街地である有楽町・銀座地区を爆撃した。この空襲はのちに「銀座空襲」と呼ばれたが、被害は広範囲に及び有楽町駅は民間人の遺体で溢れるなど[56]、死者539人[19]、負傷者1,064人、全半壊家屋823戸、全半焼家屋418戸、罹災者4,400人と今までで最大の被害が生じた[35]。日本軍も激烈に迎撃し、B-29撃墜22機を報じ、12機の戦闘機を失った[57]。アメリカ軍の記録ではB-29の損失は9機であった[58]。, 1945年2月25日、当日に行われる予定のアメリカ海軍高速空母部隊の艦載機による爆撃と連携して、B-29は中島飛行機武蔵製作所を高高度精密爆撃する計画であったが[59]、気象予報では日本の本州全域が雲に覆われており、目視での精密爆撃は無理と判断されたため、急遽、爆撃目標を武蔵製作所から東京の市街地へと改められた。進路も侵入高度もそのまま武蔵野製作所爆撃のものを踏襲したが、使用弾種の9割に焼夷弾が導入された。「エンキンドル3号作戦」と異なる点は、最初からB-29全機が東京の市街地を目標として焼夷弾攻撃を行うことであった[60]。, 作戦名はミーティングハウス1号(Meetinghouse)とされたが、このミーティングハウスというのは、東京の市街地のうちで標的区画「焼夷地区」として指定した地域の暗号名で、1号というのはその目標に対する1回目の攻撃を意味していた[61]。ミーティングハウス1号作戦では、それまでで最多の229機が出撃し、神田駅を中心に広範囲を焼失させて、神田区、本所区、四谷区、赤坂区、日本橋区、向島区、牛込区、足立区、麹町区、本郷区、荒川区、江戸川区、渋谷区、板橋区、葛飾区、城東区、深川区、豊島区、滝野川区、浅草区、下谷区、杉並区、淀橋区空襲、死者195人、負傷者432人、被害家屋20,681戸と人的被害は「銀座空襲」より少なかったが、火災による家屋の損害は大きかった[19]。宮城も主馬寮厩仕合宿所が焼夷弾によって焼失し、局、大宮御所、秩父宮御殿などが被害にあった[21]。, ミーティングハウス1号作戦は、天候による目標の急遽変更によるもので、攻撃方法も、この後の低空からの市街地への無差別焼夷弾攻撃とは全く異なるものであり、直接の関連はなく[62]、この日に出撃したB-29の搭乗員らにも特別な説明もなく、あくまでも、これまでの出撃の延長線のような認識であった[63]。作戦中は常に悪天候であり、また急遽作戦目標を変更したこともあってか、B-29は編隊をまともに組むことができず、17機の編隊で整然と爆撃した部隊もあれば、まったく単機で突入した機もある始末で全く統制がとれていなかったので成果は期待外れであったが[64]、結果的には、3月10日から開始される市街地への大規模な無差別焼夷弾爆撃の予告となるような作戦となった[65]。悪天候とB-29の統制が取れていなかった分、日本軍の迎撃も分散してしまい、この日のB-29の損失は空中衝突による2機のみであった[66]。雲上からの空襲で多くの家屋が焼失したのに対してまともな迎撃ができなかった日本軍は、東京都民の間に沸き起こりつつあった「軍防空頼むに足らず」という感情を抑え込むために、特に悪天候時にも迎撃機が出動できるようレーダーの強化を図る必要性に迫られた[67]。, 1945年2月26日から28日までの時期のB-29による東京空襲は、昼間に8000メートル程度の高高度を編隊で飛びながらノルデン爆撃照準器による目視照準を主用し、悪天候時には雲より高空からレーダー照準を活用する精密爆撃を意図したものだった。工場などが目標のため、使用弾種も焼夷弾ではなく通常爆弾が中心だった。攻撃隊は東京西部からジェット気流に従って侵入し爆撃を行うのが通例で、悪天候で攻撃目標を捉えられない場合にはそのまま東進して市街地を爆撃することがあった[60]。, 1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、前任者ハンセルの方針を踏襲していたが、工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に1月23日の名古屋の三菱発動機工場への爆撃(エラディケート3号作戦)と1月27日に行った中島飛行機武蔵製作所への爆撃(エンキンドル3号作戦)で合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった[8]。1945年2月までにアメリカ軍は、中国からの出撃で80機、マリアナ諸島からの出撃で78機、合計158機のB-29を失っており[68]、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた[69]。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した[70]。, アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度9,000m前後の高高度から3,000m以下に下げることにした。高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと考えたからである。そして、爆撃高度を下げることによる下記の利点が想定された[71]。, ルメイの分析を後押しするように、アメリカ軍の情報部は、今までの日本本土への空襲を検証して、1,500m以上では日本軍の高射機関砲は殆ど効果がなく、高射砲は3,000m以下の高度はレーダー照準による命中率が大幅に低下していることを突き止め、爆撃高度は1,500mから2,400mの間がもっとも効果が高いと分析した[73]。, しかし低空では日本軍戦闘機による迎撃が強化されるので夜間爆撃とした。夜間戦闘機が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず[74]、B-29尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、編隊は防御重視のコンバット・ボックスではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高いパスファインダーの爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するというトレイル(単縦陣)に変更した[75]。, 「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、前述の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。

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